歴史・文化財

国指定文化財

丸亀城跡

画像:丸亀城跡

標高約66mの亀山に築かれた平山城で別名亀山城と呼ばれています。本丸・二の丸・三の丸・帯曲輪・山下曲輪があります。東西約540m・南北約460mのうち内ぼり濠内の204,756m²が史跡となっています。丸亀城は山上を高石垣で巡らせた「石の城」と形容されている名のとおり石垣の名城です。

城山城跡

画像:城山城跡

丸亀城三の丸月見櫓跡から東を眺めると、飯野山(讃岐富士)の向こうに標高約462mの高原状の山「城山(きやま)」が見える。

笠島重要伝統的建造物群保存地区

画像:笠島重要伝統的建造物群保存地区

海と丘陵にに囲まれた集落には、狭い道路が網の目のように走っている。あるものは湾曲し、またあるものは丁字型や十字型に交差し、道路幅も違って、見通しが効きにくい構成になっている。このうち、集落の東寄りを南北に走る道を東小路、これに直角に海岸とほぼ平行して弓なりに伸びる道をマッチョ通りと呼んでいる。

東光寺 薬師如来坐像

画像:東光寺 薬師如来坐像

東光寺の本尊、薬師如来坐像は平安時代に作られた、ひのきの寄木造の仏様で、昭和34年に文化財に指定されている。薬師如来とは、人間を病気やいろいろな悩みから救ってくれるという仏様で、左手に薬つぼを持ち、右手の印相は施無畏の印と呼ばれている。

塩飽勤番所

画像:塩飽勤番所

塩飽勤番所跡は、本島港から徒歩10分の所にあり、表に堀を巡らせ、敷地(1,497m2)の三方を約42mの土塀で囲み、南に向いた正面を片側番屋の長屋門としている。

年寄の墓(宮本家)

画像:年寄の墓(宮本家)

塩飽人名の年寄宮本家累代の供養墓で、最も大きなのが寛永四年(1627)に建てた初代の年寄り宮本伝太夫の墓で、高さ3.0m、幅0.9mである。

年寄の墓(入江家)

画像:年寄の墓(入江家)

塩飽人名の年寄入江四郎左衛門の供養墓で、元和六年(1620)子の弘光が建てたものである。高さ3.6mの位牌形で、下方に蓮華と狛犬が彫ってある。

年寄の墓(吉田家)

画像:年寄の墓(吉田家)

塩飽人名の年寄吉田彦右衛門の墓で、寛永四年(1627)に建立された。高さ3.3mの位牌形で、下部に狛犬、蓮華、鶴亀などの彫り物がある。

正覚院 木造観音菩薩像

画像:正覚院 木造観音菩薩像

檜材の寄木造(よせぎづくり)、漆黒の高さ99.3cmの坐像。正覚院の本尊仏で、33年目ごとに開扉する秘仏となっている。鎌倉初期の中央作で、かなり優れた仏師の手になるものとされている。

正覚院 不動明王像

画像:正覚院 不動明王像

高さ98.7cm、檜材、寄木造の立像で、鎌倉時代初期の作。毘沙門天像とともに観音菩薩像の脇侍である。

正覚院 毘沙門天像

画像:正覚院 毘沙門天像

高さ106.4cm、檜材の寄木造、彫眼の立像で鎌倉時代初期の作。宝髻、天冠台をいただき、地髪はまばら彫りである。目は怒り、口を閉じ、顔をやや左向きにしている。

正覚院 線刻十一面観音鏡像(牡丹獏文鏡)

画像:正覚院 線刻十一面観音鏡像(牡丹獏文鏡)

鰐口は、仏殿前の軒下に吊す金属製の仏具で、参詣者は吊り下げてある布で編んだ綱を振り動かして打ち鳴らす。

快天山古墳

画像:快天山古墳

日本の歴史区分で4~7世紀は古墳時代と呼ばれている。古墳時代は、地域の有力者の埋葬に大型の墓造りが活発に行われていた時代であり、前・中・後期と大きく3時期に分類される。

県指定文化財

青ノ山1号窯跡

画像:青ノ山1号窯跡

青ノ山には6世紀後半から7世紀初頭の古墳群がある。昭和54年、巨石墳の青ノ山7号墳(消失)を緊急調査した際、近くの工事現場で窯跡が発見された。青ノ山南麓の墓地公園入り口付近だった。調査で、焼成室が残っている貴重な須恵器窯と分かり、保存整備された。復元してみると、全長9~10mの無段地下式登り窯(窖窯)で、7世紀以降のものと考えられる。

坂本念仏踊

画像:坂本念仏踊

滝宮神社・滝宮天満宮に奉納する念仏踊の一つとして、他の念仏踊とほぼ同じ由来を伝えている。仁和4年(888)夏の旱魃の時、国司菅原道真が城山の神に七日七夜断食して雨乞いを祈願したところ、三日三晩にわたって雨が降り続いた。農民達は次々と滝宮の菅公邸に集まり大いに踊り舞った。これが念仏踊の始まりである。

薬師如来坐像(尻浜)

画像:薬師如来坐像(尻浜)

本尊の薬師如来坐像は、平安時代の作。客仏の弥勒仏坐像は、もと惣持寺の本尊で鎌倉時代のものである。いづれも等身大の仏像で、県指定文化財であるが、破損が甚だしかったので、昭和60年に京都美術院で修理した。
長命寺が無住のため現在尻浜収蔵庫に安置されている。

笠島城跡(東山城跡)

画像:笠島城跡(東山城跡)

浄土宗の開祖法然上人が、塩飽に配流になった承元元年(1207)には、塩飽は藤原氏の荘園で、この地に地頭・駿河権守高階保遠が居館を構え、天正(1573~1592)のころには、福田又次郎の居城があったが、長曽我部氏の襲撃によって落城したと伝えられている。

持宝寺 絹本著色両界曼陀羅図

画像:持宝寺 絹本著色両界曼陀羅図

持宝寺が所蔵する曼陀羅図で、縦119.5cm、横101.2cm、室町時代初期の仏画として重要なものである。曼陀羅とは梵語のmandaraの漢訳で「悟りの境地に達する」との意味である。日本や中国では、密教修行のために多くの仏の姿などを一定の方式に基づいて描いた図像を指している。

持宝寺 木造阿しゅく如来坐像

画像:持宝寺 木造阿しゅく如来坐像

榧材の一木素木造で、高さ72.2cm。平安時代後期の作と見られるが、阿しゅく如来の古像は他にあまり例がなく貴重な像である。

陣の丸古墳

画像:陣の丸古墳

陣の丸古墳は、横山山塊の通称陣の丸と呼ばれる独立した丘陵上に築造されている古墳群で、2基の前方後円墳が方墳を間に挟むように対峙している。

市指定文化財

夫婦倉(生ノ浜)

画像:夫婦倉(生ノ浜)

木造本瓦葺の土蔵で、二連式になっているため夫婦倉と呼ばれている。薪廻船業であった「新屋」の土蔵で、棟札によれば嘉永5年(1852)、生ノ浜の棟梁・物部喜代七によって、生ノ浜の海岸近くに建てられた。

東光寺 木造不動明王像

画像:東光寺 木造不動明王像

五大明王の一つで、大日如来が一切の悪を払うための憤怒相に化身したとされる像である。

東光寺 木造毘沙門天像

画像:東光寺 木造毘沙門天像

多聞天とも呼ばれ、持国天、増長天、広目天とともに五穀豊穣に大切な役割を持つ四天王に数えられている。

東光寺 応永十二年在銘鰐口

画像:東光寺 応永十二年在銘鰐口

東光寺の本殿の前に、昔は鰐口がかけられていた。鰐口というのは、拝殿にお参りした時に打ち鳴らすすずのことをいう。直径23.2cm、厚さ6.4cm、重さ938g。

極楽寺梵鐘【ごくらくじぼんしょう】

画像:極楽寺梵鐘【ごくらくじぼんしょう】

極楽寺梵鐘は総高112センチ、口径64センチであり、1677年(延宝5)に牛島の大船持ちであった長喜屋宗心の寄進によるものです。神光寺梵鐘と同じで大阪・堺で鋳造され、銘文も浄厳(じょうごん)和尚よるものである。

千歳座

画像:千歳座

木烏神社の左奥には「千歳座」と呼ばれる芝居小屋があります。文久二年(1862)に建てられたもので、全国で特に重要な舞台30件の中のひとつです。

木烏神社

画像:木烏神社

遠く神代の昔、讃岐の国造であった日本武尊が、この付近を荒らしていた悪魚を退治されたとき一羽の烏が水先案内をつとめたという伝承の烏は、本島の玄関口、泊港の近くに木烏神社として祀られています。

正覚院 永徳元年在銘鰐口

画像:正覚院 永徳元年在銘鰐口

鰐口は、仏殿前の軒下に吊す金属製の仏具で、参詣者は吊り下げてある布で編んだ綱を振り動かして打ち鳴らす。

正覚院 応永二十八年在銘懸仏

画像:正覚院 応永二十八年在銘懸仏

懸仏は、古くは御正体と呼び、多くは神社の本地仏を円鏡形の金属板などに取り付け、神社の本殿、まれには仏殿に掛け、現世安穏、後世善所、子孫安楽、無病延命などの御利益を祈ったものである。

正覚院 延宝五年宥算在銘梵鐘

画像:正覚院 延宝五年宥算在銘梵鐘

正覚院の仁王門を入ったところの袴腰鐘楼に釣るされている鐘である。寛永年間(1624~1644)に、塩飽の年寄宮本伝左衛門は亡父伝太夫道意の追善供養のため、巨鐘をこの寺に寄進したが、やがて損傷して美しい鐘の音が聞けなくなった。

正覚院 大般若波羅密多経

画像:正覚院 大般若波羅密多経

正覚院所蔵の大般若波羅密多経は、折本の版木経と写経本の2種である。

神光寺梵鐘【しんこうじぼんしょう】(立石)

画像:神光寺梵鐘【しんこうじぼんしょう】(立石)

神光寺梵鐘は総高112センチ、口径64センチであり、1676年(延宝4)に氏子衆の寄進により、大阪・堺で鋳造されました。銘文は江戸期の高僧で、梵字学の大家あった浄厳(じょうげん)和尚によるもので、縦帯(じゅうたい)の撞座(つきざ)の上に蓮華座(れんげざ)をつくり、種字(しゅじ)を陽鋳(ようちゅう)しているのがこの鐘の特徴です。

岡田おどり

画像:岡田おどり

岡田おどりは、戦後まで「盆楽会」の名称で伝承されてきたが、昭和47年に綾歌町民俗無形文化財として指定され「岡田おどり」と改称し、保存会を設立した。踊りは、「岡田おどり」を中心に「一合まいた」「島おどり」「ハタキ」の4曲で構成されている。

吉岡神社前方後円墳

画像:吉岡神社前方後円墳

全長が55.6mあり、当時、丸亀平野に築かれた前方後円墳では最大規模を誇る。同時期に築かれた他地域の前方後円墳と比較すると、高松平野の高松茶臼山古墳、猫塚を除くと50mを超える規模の古墳は築かれていない。これらから、この古墳の被葬者は、丸亀平野北部を治める権力者だったと考えられる。

西長尾城跡

画像:西長尾城跡

讃岐を代表する著名な山城の一つとして、綾歌町南部の城山山頂付近に所在する西長尾城跡が挙げられる。西長尾城は、白峰合戦での軍功を認められた三野郡詫間郷筥御崎領主海崎伊豆守が長尾大隈守元高と名乗り、応安元年(1368)に城主となり、中讃の拠点として活躍した城である。

宝幢寺塔礎石と宝幢寺瓦

画像:宝幢寺塔礎石と宝幢寺瓦

丸亀市郡家町下所にも古代寺院があった。「宝幢寺」と呼ばれ、在地の有力豪族により建てられたと考えられる。宝幢寺は、戦国時代末ごろの戦乱により焼失したと伝えられ、寺跡は江戸時代にため池となった。

宇閇神社古墳

画像:宇閇神社古墳

後期古墳は、市内では青ノ山山麓、飯野山山麓、綾歌町南部山麓に群集している。 そのうち、綾歌町栗熊西の宇閇(うのい)神社境内にある宇閇神社古墳は、直径16~17m、高さ4mの円墳である。

栗隈城跡(湯舟城跡)

画像:栗隈城跡(湯舟城跡)

栗隈城は、白峰合戦で軍功をあげた詫間の海崎城主が長尾大隅守元高と名乗り、城山山頂付近に西長尾城を構え、その支城として配置した城の一つである。

中津万象園・京極高朗墓所

画像:中津万象園・京極高朗墓所

市内に残る丸亀藩主・京極氏の足跡として、中津万象園と6代高朗の墓所がある。

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